何もないところから
1981年、鹿児島県障害者問題研究会(通称『鹿障研』)のメンバーを中心に『鹿児島に共同作業所をつくる会』が設立されました。すると翌1982年にはひとりのなかま(当事者)のご家族よりご自宅提供のお申し出があり、お宅を改修しての作業所づくりがスタートしました。
24平米ほどの小さなスペース。しかし工事費用は400万円。このお金をなんとか捻出しようと、廃品回収・バザー・物販の取り組みがスタートします。
鹿児島市内一円の方々、様々な組織にアプローチし、廃品回収は大きな広がりを見せました。バザーに出す品物は一般市民からだけでなくスーパーやデパートからの提供もあり、よく売れたといいます。
このころには麦の芽共同作業所の存在は新聞やテレビでも報道されており、その知名度も手伝って地域のお祭りなどで屋台を出すこともできました。このことは、自宅から出る機会がほとんどなかったなかまたちにとって、市内観光や社会体験のまたとない機会ともなりました。
お金も暇も人手もありませんでしたが、どんなに障害が重いなかまも働ける場をつくっていこうというゆるがぬ夢がありました。
障害者への目線を問いかけたバザー『ちんたら村』
『障害者が働くなんて、考えられない!』という社会の目。
1982年3月に永吉公民館で開催し麦の芽の資金作りの大きな柱となった初バザーには、障害者でも『こんな生き方ができる』『だから時代を変える』という発信の場という意味もありました。
当日の地域の方々との出会いや交流はもちろん、準備過程でのなかまたちの参加、参画の場面など、施設内では得られない発見や実践、気づきがあったといいます。
そして1984年12月に開村した伝説のバザー『ちんたら村』。
重度障害者の生活と労働を守る歩みは遅々としており、『寝ては、ちんたら!起きても、ちんたら!』。
ちんたら結構。人生、ゆっくり、のんびり、確実に。そんな感じで福祉の村『ちんたら村』という伝説のバザーは誕生しました。<ちんたら村に1万5千人>と新聞記事になるほどの盛況ぶりです。
ちんたら結構。人生、ゆっくり、のんびり、確実に。そんな感じで福祉の村『ちんたら村』という伝説のバザーは誕生しました。<ちんたら村に1万5千人>と新聞記事になるほどの盛況ぶりです。
コンセプトは、福祉を語る村。『様々な立場から、それぞれの問題に取り組んでいる多くの市民が、ちんたら村を創る。一人一人が人間らしく生きることができる社会をめざす。ちんたら村には3つの顔があって、何か歯がゆい現実の顔と、ほほえむ顔の将来と、両者を見すえ表情するあなたの顔と・・・』。
ハンディがあっても、こんなふうに生きる、生きたい。社会の理解を求めて、各団体や組合、社協などにつながりを求めました。
『親の会』の願いが形に
鹿児島子ども療育センターの誕生は、1984年4月の『あすなろ療育相談室』開設がきっかけとなりました。しかし民間療育施設であるため行政からもどこからも援助はなく、親の支払う療育費のみでの運営です。
このあすなろ療育相談室開設をきっかけに、『鹿児島に発達保障の砦をつくろう!』との思いに賛同者があらわれ運動に発展。1985年5月には『鹿児島子ども療育センターをつくる会親の会』が発足。できることから始めよう、と、廃品回収に取り組み始めました。まずは自宅の廃品からスタートでしたが、回を重ねるごとに協力者と廃品の量が確実に増えていきました。その他、バザーや物品販売にも取り組んでいます。
そして1986年5月、あすなろ療育相談室が発展的に解消、『鹿児島市子ども療育センター』が鹿児島市原良町に開所しました。しかし、子どもをみてもらうために来るのに、廃品回収やバザー等に気を回さなければならない現実を憂う声もあり、現実は厳しいものでした。そんなさまざまな親たちの思いや願いの中で運動が実り、無認可ではあるものの療育の場が生まれたのです。
『赤ちゃんからお年寄りまでだれもが安心して暮らせるまちづくり』を目指し、『麦の芽共同作業所』との共同事業として、社会福祉法人認可施設建設が始まりました。
1990年9月、多くの人たちの支援のもと、国内各地の療育活動の先進地視察研修を実施。『生まれたところによって幸、不幸があってはならない』との思いが強まり運動が拡大、県内各地に自主的な親の会も誕生していきました。
1992年、ついに『社会福祉法人麦の芽福祉会』が認可設立しました。
そして1993年には『社会福祉法人麦の芽福祉会 鹿児島子ども療育センター』が誕生します。県内各地の障害を持つ親たちの願いが、みんなの共有の財産として形になった瞬間です。
当時の中心的人物のひとりは、障害者、障害児を持つ親たちがその願いを発信し実現に向けて行動を起こせるようになるには、障害者や障害児を持つ親たちに寄り添い、それを支える他者の存在と一定の道のりが必要ではないか、と振り返ります。
中・長期10ヵ年計画策定 奮闘記
1995年7月29日、『サンコミュニティセンター』(略称 サンコミ、現 あゆみ)の建設準備会が開かれました。サンコミュニティセンターとは、
・身体障害者福祉ホーム【ゆめの里】
・身体障害者通所授産施設【いきいきセンター】
・デイサービスセンター【ありのまま、さわやか】
を総称したものです。
月に1回、なかま・家族・スタッフが膝を交え夢を語り、仕事や生活設計について勉強し、みんなで作り上げてきました。必要な資金も莫大なもので、翌1996年はイベント続きの1年となりました。
コンサート、落語会、絵画展、カレンダーづくり、バザー、そしてまたコンサート。はたして今自分は何をしているのかよく分からないまま仕事をしていた、と振り返るスタッフもいます。
コンサート、落語会、絵画展、カレンダーづくり、バザー、そしてまたコンサート。はたして今自分は何をしているのかよく分からないまま仕事をしていた、と振り返るスタッフもいます。
そんな忙しく大変な日々はまた、充実して楽しく笑顔があふれる日々でもありました。
サンと言えば、『福祉ホームゆめ畑』に『SUNばば』と呼ばれる3人の存在が。太陽のような3人のおばさんたちという意味で、今も『SUNばばの会』という自治会名に反映されています。
『KEYAKIハウス』の住人達と一緒にワイワイおしゃべりする場であり、真剣な話し合いをする場として、月に一度の『ゆめ畑をこやす会』がありました。
誰かの誕生日にはみんなで祝いあい、長期の休みには海に出かけたり。イベントの連続で忙しい日々ながら遊びにも一生懸命な、家族のような、いや、それ以上のお付き合いです。
そんな住人達の生活を支えてくれた人たちの中に、『一年間ボランティア』さんがおられます。1995年から11年間、日本青年奉仕協会から派遣されてきた方たちです。ボランティアさんたちはなかまたちと生活を共にし、新しい風を吹き込みながら麦の芽の歴史の1ページを支えてくれた、影の功労者たちでした。
なかまの中には前年のボランティアさんに会うための旅行に出かけた人もいるなど、語りつくせない思い出がいっぱいです。
なかま・家族・職員念願の『ゆめのまち』誕生
働く場・暮らしの場・支える場・つながる場が一堂に会する『ゆめのまち』、完成したのは2006年4月です。その発端は1983年に描かれた一枚の絵にさかのぼります。『こんな生活の場が欲しいな』と。
絵の中には3階建ての建物があり、その中には福祉ホーム、生活支援センター、地域コミュニティホール、障害者診療所などが集まっています。
障害児の療育の場『あすなろ』と障害者が働く場をつくった『麦の芽』が縁を結んだのは1988年。親たちは常に素晴らしいパワーと固いきずなをもって、夢を実現していく源になってきました。『ゆめのまち』の出発点は、成人となった子どもたちの働く場づくり。そして、自立した生活ができるホームづくり。
そんな夢のような街をつくる取り組みは、期待と思いを育みつつ、試行錯誤から始まり紆余曲折しながらの長い道のりでした。
資金づくり、認可交渉、土地購入、全体構想、建設計画、毎度のことながら乗り越えるヤマハ困難の連続です。建設準備委員会を立ち上げて完成するまで約7年。1983年に描かれた絵に限りなく近い『ゆめのまち』はみんなの思いの結集。麦の芽の歴史に大きな1コマを刻んだできごとでした。
死に向き合う実践 『ゆりかごから墓場まで』
親の心配は願いに変わりました。
『自分が死んだあと、誰がこの子を弔ってくれるのだろうか』『自分のことは誰が看取ってくれるのだろうか』『葬儀のお金のこと、お墓のことが心配』・・・・・年を重ねるごとに『死』は現実味をおびてきます。見て見ぬふりをしたいけど、素直に向き合いたいところです。
麦の芽のなかまたちが、きちんと葬儀に参加できるように、その人らしい葬儀を行えるように。そんな願いを実現させるべく『エンディングセンター』事業が始まりました。
『エンディングノート』『むぎのめ葬』『協同・共同の碑(いぃぶみ)』『麦の芽共同墓地』などです。構想は他にも続いています。
『エンディングノート』は自分の死のクリエイト。『70才になったら死にますから』という冗談も飛び出すのですが、一人では冗談も出てこないでしょう。必ず誰かと一緒に書くことを決まりとしています。
2部構成のエンディングノート。第1部は財産相続や葬儀のやり方など。第2部はもう一度行ってみたい場所、会いたい人などを書き込んでいきます。その人の人生に触れ、深く理解し人間関係を深め、さらなるつながりを作るのです。
2部構成のエンディングノート。第1部は財産相続や葬儀のやり方など。第2部はもう一度行ってみたい場所、会いたい人などを書き込んでいきます。その人の人生に触れ、深く理解し人間関係を深め、さらなるつながりを作るのです。
エンディングノートを書くことで自信を取り戻すこともありますし、書いて安心して逆に元気になる人もいます。
麦の芽がめざす『墓場まで』とは、単なる葬儀や墓地のことだけではありません。
死に向き合う実践を通して、自分の活きてきた価値や証を感じることなのです。
死に向き合う実践を通して、自分の活きてきた価値や証を感じることなのです。
2011年に肺炎で亡くなったホームのなかまの葬儀は、なんと『居酒屋風葬儀』。
にぎやかにお酒を飲むのが大好きだった彼のために考えたお葬式です。焼き鳥や枝豆など居酒屋定番メニューをふるまい、演歌を流しながら盛大に執り行われました。
にぎやかにお酒を飲むのが大好きだった彼のために考えたお葬式です。焼き鳥や枝豆など居酒屋定番メニューをふるまい、演歌を流しながら盛大に執り行われました。
そしてそして
2000年8月に現『サポートセンターうぃる』を手始めに、社会福祉法人麦の芽福祉会 薩摩川内地域本部の取り組みはスタートしました。麦の芽協同作業所のスタートから18年あとのことです。今では認可保育園・ヘルパー事業・地域活動支援センター・障害児学童保育・短期入所などなど10の事業を行っています。
そうそう。2015年の夏には甑島初の地域活動支援センター『共同作業所 トンボロの風』を里町に開所しました。
2010年4月には指宿に、『指宿ゆめのまち』が誕生。
『福祉の地域格差』。障害を持つ子どもを受け入れる施設がない地域でした。むろん、働く場も暮らす場も。コツコツと地域とつながり、土地の伐採作業から始めた取り組みです。
養護学校の中等部に通い、あと1年で高校生という一人の娘さん。でもその学校には高等部がありません。一方で隣のお姉さんは高校に汽車で通学していますが、その娘さんは寄宿舎に入るしかありません。でもお家から通いたい。
『なかったら、大工のおじさんに頼んでつくってもらえばいい!』
『ないから仕方ない』という生き方をしてきた母を変えたのは、娘さんのそんな一言でした。そんなことが運動をつくり、地域の人たちが理解してくださるようになり、やっと実現できた『ワークショップみんなの家』、そして『指宿ゆめのまち』です。